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生涯を添い遂げるマグ 生涯を添い遂げるマグ

MUG. hand made by pottery craftsman

Craftman #04
大堀相馬焼
松永和夫
松永窯
福島県西白河郡西郷村

CRAFTMAN:
Kazuo Matsunaga

CATEGORY:
Oborisoma Yaki

POTTERY:
Matsunagagama

LOCATION:
Fukushima, Nishishirakawa County,
Nishigo Village

photo photo

震災の苦難を乗り越えて
伝統の技法を駆使して
再び歩み始める

浪江町を訪ねて
福島県郡山市から国道で東へ向かい、太平洋の間際まで出ると、急に視界が開けます。その終着点とも呼べる「道の駅なみえ」では、B級グルメの「なみえ焼そば」や請戸漁港で水揚げされた海の幸などを味わえるほか、地元の野菜や海産物、地酒などを購入できます。さらに、「無印良品」が全国初となる道の駅に出店し、浪江町が誇る伝統的工芸品である「大堀相馬焼」の展示販売や陶芸教室を行うなど、にぎわいを見せています。
一方で、浪江町に入って山中を走っていると、道路脇に“帰還困難地域”の看板を見かけました。2011年の東日本大震災から復興の歩みを進めているものの、14年が経過した今も、その道のりは半ば。実際、大堀相馬焼の窯元で浪江町に帰還を果たしたのは、わずかに一軒とのことです。
帰還困難地域の看板

大堀相馬焼の歴史

大堀相馬焼は、浪江町の大堀地区(1956年に浪江町、大堀村、苅野村、津島村が合併し、現在の浪江町に)で生産される焼きものの総称で、その発祥は江戸時代にさかのぼります。
時は元禄年間(1688〜1704年)、相馬藩が治めていた時代。半谷休閑が使用人である左馬の製陶の技術を見込み、地元の陶土で茶碗をつくらせて売り出したのが、「相馬焼」の始まり。その後、農家の副業として近隣に普及し、窯元の数も100軒を超えました。
それが一転、明治時代の廃藩置県により相馬藩の援助が途絶えると、廃業する窯元が続出します。その数は激減してしまいますが、産地問屋が誕生したことで流通するようになっていきました。
松永窯もそうした歴史をたどった窯元の一つです。3代目の松永和夫さんに経緯についてお聞きしました。

大堀相馬焼・松永窯の3代目、松永和夫さん

ショールームから外を眺めて。桜の季節にうかがいました

「うちの歴史をたどると1693年の開窯ですが、明治に入って途絶えています。食えない時期に、田んぼや山を持っている半農半陶のところはやめてしまったんですよ。ただ、うちのじいさんは長男ではなかったんで、農家を継げず、1910年に産地問屋を始めました。
私はそこから数えて3代目です。今も焼きものを続けている人のなかには、やめたくてもやめられなかった人が多いんじゃないかな」

こうして販路は拡大していきましたが、他の産地との競争が激しくなっていきました。そうしたなか、「二重焼き」「走り駒」「青ひび」といった、現在まで大堀相馬焼の代名詞である技法が生み出されました。


大堀相馬焼が誇る独特の技法

大堀相馬焼の技法について解説したいと思います。

まずは、「二重焼き」。明治末期、坂本熊次郎という陶工により考案されたといわれています。
特徴としては、断面を見れば一目瞭然なのですが、内側と外側のダブルウォールの構造になっていて、熱い湯を入れても冷めにくく、また手に取ることができます。他の焼きものの産地ではあまり見られない、めずらしい技法です。

ろくろを用いて、二重焼きの外側と内側を制作
外側と内側を重ね合わせます
水をつけて、上の口の部分をくっつけていきます
内側にも釉薬をかけるため、底部に穴を開けておきます
試しに割ってみると…
内部が空洞になっているのがわかります

次に、こちらも明治期に誕生したといわれる「走り駒」。
相馬藩の御神馬を描いたもので、狩野派の筆法といわれています。左馬とも呼ばれるように、常に左向きで描かれており、「右に出るものがない」という意味合いで縁起物としても親しまれています。
和夫さんは走り駒の名手で、朝から晩まで描き続けたら、500は描けるだろうとのことでした。

走り駒の絵付けの様子

青ひびの作品

最後が、「青ひび」。大正時代に入ると、青磁釉が主流になっていきました。素材と釉薬の収縮率の違いからうつわの表面に生じる細かなひびを貫入といいますが、特に青磁釉のものを青ひびと呼びます。貫入は窯出しの際に起こるのですが、繊細で澄んだ音色を奏でます。
この音は、「うつくしまの音 30景」にも選ばれています。


国の伝統的工芸品に

歴史の話に戻ると、大正末期の不景気や昭和に入ってからの戦争の影響により、半農半陶で生活していた職人や、徴兵に応召された窯元らは廃業を余儀なくされました。しかし、第二次世界大戦後、状況は好転します。戦争によって消耗した物資の補充として、何をつくっても売れる時代が到来したのです。特に、二重焼きはアメリカを中心に輸出され、「ダブルカップ」「アイデアカップ」という愛称で人気を博しました。

1949年の生まれで、今年で76歳になる和夫さんは18歳で家業に入りましたが、当時はベトナム戦争の影響で、相馬焼も忙しかったそうです。

「米軍基地が立川から横田へ移転する頃で、浪江からも4トン車でうつわを運んでいましたよ」

そして1978年、大堀で受け継がれてきた相馬焼は、相馬藩にルーツを持つ「相馬駒焼」との関係で大堀相馬焼として、国の伝統的工芸品の指定を受けました。ちなみに、和夫さんによると、相馬焼は民窯、相馬駒焼は藩窯の流れを汲んでいるとのことです。

民窯という言葉は、柳宗悦らも民藝運動のなかで用いていますが、庶民のための素朴で、低価格の日常雑器を意味しています。多少の粗さが見られることが多いのですが、大堀相馬焼では鉋目などを残さず、綺麗に仕上げられます。これも大きな特徴といえるでしょう。


2020年にオープンした、工房兼ショールーム
完全復活へ向けて

2011年3月11日、東日本大震災および福島第一原子力発電所事故が発生し、大堀地区を含む浪江町全域が避難指示区域に指定され、25軒の窯元が離散することになりました。
また、青磁釉の主原料である砥山石も放射能汚染のため、使えなくなってしまいました。それでも、窯元たちはあきらめませんでした。
松永窯については、どのように再建してきたのでしょうか。

「2年ほどは何もできませんでした。それから西郷村の今の場所に仮設の工房を構えました。このショールームをつくったのは、2020年のことです。行政からの助成や復興需要もあって、なんとかここまで来ることができました。でも、これからが大変です」

和夫さんの実家は、今も帰宅困難地域に指定されています。生まれ育った場所であり、18歳からは職場でもありました。当然、故郷への思いは募ります。

「今では薄らいできたけど、5、6年前までは夜起きたら天井が違うし、ふと、なんでここにいるんだっけ、って」


Wired Beans
「生涯を添い遂げるマグ」との
取り組み

Wired Beansとの取り組みは、現在のショールームが完成した頃から始まりました。
産地によって製法が異なるのが、Wired Beansの大きな特徴ですが、松永窯では本体も持ち手も手でつくっています。
「点ではなく、面で接着するから、しっかりつけようとすると本体が少しつぶれるし、加減が難しかったですね」と、和夫さんは振り返ります。

マットな黒をベースに、艶のある黒で模様が描かれたマグは、食卓はもちろん、書斎やオフィスなどにも最適です。カップのなかをのぞき込むと、走り駒が描かれています。

ガス窯で、これから焼成するWired Beansのマグ

次の世代につないでいくために

後継者について質問したとき、和夫さんの発言に驚きました。

「うちの息子がやるなんで言い出したとき、反対した。大変だもん……」

実際、和夫さんと同い年くらいの窯元の当主は多く、震災で踏ん切りがつき、辞めた人も多かったそうです。和夫さんも、勢いで立派なショールームを建てたものの、今後については大きな不安を抱えています。
それでも、伝統的な作品に加え、意欲的な作品に取り組んでいます。たとえば、二重焼きの内部の構造を変えることによって、日本酒の味わい方のバリエーションを提供した「IKKON」や、宮城県石巻市の伝統的工芸品である雄勝硯と協働して黒の光沢の美しさを追求した「クロテラス(黒照)」などがあります。

企業とのコラボレーションから生まれた「IKKON」。ラウンド、ナロー、ストレートと異なる二重焼きの構造が日本酒の味の深みを引き出します
東北の2つの町の出会いから誕生した「クロテラス(黒照)」。雄勝硯に使われる雄勝石を砕いて釉薬にしています

さらに、インターネットや福祉の世界に通じたアイデアマンの息子さんのほか、地域おこし協力隊で来られた方、元益子焼の作り手を仲間に加えるなど、今では前を見据えています。

かわいい初孫に目尻を下げながらも、和夫さんの忙しい日々はまだまだ続きそうです。


大堀相馬焼・松永窯
Oborisomayaki Matsunagagama
住所

〒961-8061
福島県西白河郡西郷村小田倉字小田倉原1-31

TEL

0248-21-5334

WEB

https://soma-yaki.com

生涯を添い遂げるマグ 大堀相馬焼

300年以上の歴史を持つ指定伝統的工芸品「大堀相馬焼」の作陶を手がける松永窯。2011年の東日本大震災による原発事故で廃業を余儀なくされましたが、2014年に拠点を移して再建。松永窯でつくられる焼き物は二重構造や左馬の絵柄といった伝統を継承しつつ、現在も変化を恐れずに進化を続けています。