CRAFTMAN:
Atsushi Shimakura
CATEGORY:
Seto Yaki
POTTERY:
Chikudouen
LOCATION:
Aichi, Seto City
CRAFTMAN:
Atsushi Shimakura
CATEGORY:
Seto Yaki
POTTERY:
Chikudouen
LOCATION:
Aichi, Seto City
1924(大正13)年、塚田金蔵と島倉武雄が共同で、竹堂園の前身となる製陶所を創業。1940年、事業の発展に伴い、それぞれが窯を構えることとし、島倉家は「竹堂園」を名乗りました。1958年、武雄の長男の春海が2代目を継承しました。淳さんは大学を卒業後、2年間は瀬戸窯業高等学校(現在の瀬戸工科高等学校)の専攻科で陶磁器について学びます。卒業後は3年半、東京の陶磁器の製造、卸の会社、株式会社アイトーに勤務。それから地元に戻り、1990年に3代目を継承しました。淳さんいわく、当時の竹堂園は、“瀬戸一汚い工場”で、“瀬戸で一番安いお皿を焼いていたそうです。
「最初に工場の環境の改善と、清掃の徹底に取り組みました。あと、100円均一の取り皿も焼いていたんですよ。とにかく汚いのがイヤで、安ものを作るのもイヤで。新社屋を建てたり、商品を見直したり、ちょっとずつ着手していきました」
それから百貨店でも取り扱ってもらえるような商品を目標に、開発を推し進めました。そのために、古巣のアイトーをはじめ、お客様のところに足を運んでは、貪欲に情報を収集し、受注に結びつけていきました。その結果、ギフト向けの商品を作ったり、有名な料理家の栗原はるみさんがプロデュースする食器のOEMを手がけるまでになったのです。
飄々と話す島倉さんですが、安いものをつくっている工場が価格を上げるのは、そう簡単なことではないはず。自社のブランドの価値の向上の背景には、島倉さんの性格も大きく影響していました。
「私はけっこう好奇心旺盛で、新しもの好きなんです。だから、Eメールやインターネットに始まって、3Dプリンターによる複雑な形状の商品の開発、ChatGPTを活用したデザインなど、いち早くデジタルを取り入れたんです。リスクを取ってでもいいから、常に新しいことをやっていきたい。そこがある意味、強みだったかなと思っていますね」
もともとB to Bの商品を手がけるOEMのメーカーでしたが、2008年頃からは、B to Cに向けたオリジナルの開発をスタート。現在もOEMが売上の約9割を占めますが、オリジナルのアイテムは竹堂園のブランディングにも貢献しています。
代表的な商品に、出産祝いに特化した子ども用の食器「のっぽのポノ」や、好きな角度でピタッと止まる小型犬・猫用の食器「かたむけて」などがあります。
竹堂園の工場内をご案内いただきました。いち早く3Dプリンターを導入するなど、自らを“新しいもの好き”という島倉さんの性格上、機械化、デジタル化が進んでいると思っていましたが、意外にも手仕事の工程が多いことに驚かされました。
まずは、2階へ。
竹堂園にWired Beans「生涯を添い遂げるマグ」をお願いするにあたり、これまでに多くの企業との仕事を手がけていること、豊富な釉薬を持たれていることは、私たちにとって心強いことでした。
快く引き受けていただけた背景には、「瀬戸焼を盛り上げたい」という島倉社長の強い思いがあったのです。

日本六古然のひとつで「せともの」という言葉の由来となった瀬戸焼。三代にわたり作陶を続ける瀬戸焼窯元・竹堂園では、伝統を大切にしながらも革新を続け、温故知新の精神で新しい瀬戸焼を創造しています。
島倉さんが3代目を継承して35年。伝統の手仕事を守り、その技術を絶やさないために若手の職人を育てつつ、新社屋を建て、最新の設備を導入したことで、竹堂園は業績を伸ばしてきました。さらに、品野陶磁器工業協同組合の理事長を務めるなど、産地の発展に尽力されてきました。“温故知新”のバランス感覚に優れた経営者という印象です。
「かつての瀬戸焼は隆盛を極め、一世を風靡したが故の『奢れるものは久しからず』ですよ。窯元の数は減り、生産量でも、美濃焼や肥前の産地に大きく差をつけられています。4年間、組合の理事長を務め、ホームページやSNSを整備しましたが、組合をまとめるのは大変なことでした。とにかく、瀬戸焼を今以上に減らさないように、賑やかにするのが夢です。“令和の加藤民吉(瀬戸の陶工。瀬戸の磁器の創始者)”となるようなイノベーターの出現に期待しています」